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1849
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インド測量局がP−15と仮名する。このときまだカンチェンジュンガが最高峰と考えられていた。
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1852
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P−15を最高高度と測量。一人のインド人測量官が当時の測量局長官アンドルー・ウォーの部屋に駆け込んで、「閣下、世界最高峰を発見しました」と報告。それは海抜29002フィート(8840m)のP−15であった。この話は少々疑わしく、実際に正確な測量値が算定されたのは1865年であったともいわれる。
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1865
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当時の測量には関わっていないが、前任の二 代目インド測量局長官であったジョージ・エヴェレスト卿(George
Everest)の功績(1823~43任官)に敬意を表して、その名が与えられる。
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〔山名について〕
エヴェレストの名が冠された1865年、ドイツの有名な探検家シュラーギントワイト3兄弟の長兄ヘルマンが最高峰のネパール名はガウリサンカール(Gauri Sankar)と発表し、多くの地図に採り入れられた。王立地学協会のD.フレッシュフィールドでさえ、ガウリサンカールを正式名として認めていた。当時のシッキム政務官でチベットに造詣の深いC・ベルはカンチャモルン(Kang Chamolung)を正式な名としている。1910年には、第2次エヴェレスト隊々長を務めたC.G.ブルースが、エヴェレスト山群はチョモルンマ(Chomo-Lungma)といわれている、と主張した。第1次隊以来、チョモルンマという名が採り上げられはじめる。その第1次隊のとき、ラサ政府からはチャモルンマ(Cha-mo-lung-ma)という名で許可が与えられている。現在中国では、チョモランマ(珠穆朗瑪峰Qomolangma Feng, Jo mo glang ma)を正式名としている。
カンチャモルン、チャモルンマ、チョモルンマ、チョモランマなどさまざまだが、すべてチベット語である。ただ、チベット語のスペルや意味から考えると「チャモ」は間違いで、「チョモ」であろう。「チョモ(jo mo)」というチベットは語は女神という意味である。ルン('lung)は谷あるいは国の意で、マ(ma)は母、女性であるから、「ルンマ」は母なる国といった意味になる。「チョモルンマ」は母なる国の女神といった意味だろうか。「ランマ」は、まったく意味が異なる。「ラン(glang)」は象である。したがって「チョモランマ」は母象のような女神という意味か。ただ、1960年の中国隊の史占春隊長は、「チョモルンマ(Jomo Lungma)であって、けっしてエヴェレストではない」といっている。チョモランマではないんだよね。ネパールでは近年サガルマータという名を与えている。「サガル」が世界、「マータ」は頭・頂という意味らしいが、古くから現地で言い習わされた名かどうかはちょっと疑わしい。「世界の頂上」という意味になるからね。
『ザムリン・ゲシェー』というチベットの古い地理書は、大雪山としてティセ(Ti se)とチョモカンカル(Jo mo gangs dkar 白い女神の山)を挙げている。ティセはカイラーサであり、チョモカンカルはエヴェレストを指す。チョモカンカルには山の女神ツェリンチェーガ(Tse ring mches lnga 永生の五姉妹)の住処の一つと考えられている。チベットではほとんどの山が聖なる山である。とくに女神の坐す山が多い。
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■ヨーロッパでは18世紀の中頃から、聖職者や土地の有力者、猟師などによってアルプス登山が始まっていたが、スポーツ登山として体系化した英国のパイオニアたちが登場するのはそれより1世紀後である。やがて英、独、伊、仏に山岳会が設立され、アルプスで数々の初登頂がなされていく。英国はこの時代を黄金時代と呼んだ。黄金時代の終わりを告げたのはW.E.ウィンパーによるマッターホルン初登頂であり、それはP−15がエヴェレストと命名された1865年であった。続いて銀の時代に入ると、フリースタイルのガイドレス、ソロ、ヴァリエーション開拓が始まり、1882年セラ兄弟のダン・デュ・ジェアン(エギーユ・デュ・ジェアン)登頂によってその幕を閉じる。そして、人工登攀具による困難を追求した鉄の時代に入っていった。20世紀に入ると、英国の岩場と東アルプスで並行的に岩登り術が完成し、独国では人工登攀具が開発されて、新しいアルピニズムの幕が開けた。アルピニズムの担い手は英国から独国、伊国に移っていく。第一次大戦前にミュンヘンでハーケン、カラビナ、アイゼン、アブミなどの登攀具が開発され、それを利用した新しい登山術が生まれて、アルプスで実践されていった。またフィールドもカフカズ、アンデス、アラスカといった地域に広がっていく。アルプス鉄の時代は、エヴェレスト登頂で幕を閉じることになるヒマラヤ探検時代と重なる。
19世紀終わりから20世紀にかけて、ヒマラヤをめぐる地域は、フーカー、コンウェイ、フレッシュフィールド、アブルッツィ公、ヤングハズバンド、ヘディンといった探検家、あるいはインド測量局によってベールを脱ぎ始めていた。ヒマラヤにアルピニストが登場するのは19世紀末になってからである。なかでも1895年のA.F.ママリー、J.N.コリー、G.ヘイスティングスのナンガパルパット遠征は、登山の悲劇として記憶される。当時は高度という認識は薄く、8000mの高峰はあまりに未知な世界であった。ママリーはその高峰をひたすら登り続け、消息を絶つ。ママリーは銀の時代の代表的登山家で、その思想はママリズムといわれ、大正・昭和初期の日本の学生登山家に大きな影響を及ぼした。新しいアルピニズムが始まった20世紀になると、T.ロングスタッフ、C.G.ブルース、A.L.マム、A.K.ケラスといったアルピニストがヒマラヤに登場し、6000~7000mの高峰を登り始める。
一方、日本ではサトー、ガウランド、ウェストンなどのお雇い外国人や外交官、宣教師らによってもたらされた近代登山は、19世紀後半になって日本人の間でも行われるようになる。そして日本の探検時代を迎え、1905年のJAC創立をはさんで明治末まで続いた。小島烏水、高頭式、木暮理太郎といったパイオニアたちが日本アルプスを手探りで開拓していった。古来より登山の形態としては修験者たちの登拝というかたちで山が登られ、江戸期では講中登山として一般庶民に普及していたが、山岳美を認識して純粋登山が始まるのは明治期の終わり、ヨーロッパ・アルプスではすでに鉄の時代、英国の登山家がヒマラヤに足を踏み入れようとしていた時代であった。
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1907
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英国山岳会(AC)50周年記念のとき、エヴェレスト登山が提言される。ちょうど英領インドはロシアと条約を結ぼうとしていたときで、英印政府はチベットやネパールに外国人が入ることを嫌っていた。
※T.G.ロングスタッフがトリスル(7120m)登頂。1905年にはグルラマンダータに試登している。
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■当時の英国は、インドに向かって前進するロシアの脅威という先入観があって、アフガニスタンのようにチベットを緩衝国家に仕立て上げようとしていた。つまり、チベットには手をつけず、いっさい内政干渉をしないという条約を結ぼうとしていた。実際この年に英露条約を結ぶが、次は警戒していなかった中国(清朝)がチベット政策を急転回させ、宗主権を主張して帝国の一省に加えようと反撃に出てくる。やがてチベットに対する実権を清朝が握り、英国は緩衝地帯を失うが、清朝は1911年に崩壊し、1912年中華民国が成立する。そして英国は1913年にシムラ会議を招集し、ふたたびチベットを英中間の緩衝地にしようとする。圧力を受けて中国は出席させられ、チベットは喜んで出席した。英国のねらいは、実質的にチベットを英印政府に従属させ、中国とロシアを効果的に閉め出すことにあったが、中国は議案を批准することはなく(中国代表は強制的に署名させられてはいるが)、三者協定が結ばれることはなかった。しかし、英国はこのとき、名目的ではあるが、チベットは中国の宗主権のもとにある自治国であるということを認めているのである。シムラ会議の翌年、第一次大戦が勃発する。
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■1909年に米国R.E.ピアリー隊が北極点に達し、1911年にはノルウェーのR.アムンゼンが南極点に達した(白瀬矗隊の南極探検は1912年)。英国では、スコット隊が南極点到達に失敗して全員死亡したこともあり、第3の極点であるエヴェレストを目指す機運が高まっていたのかもしれない。しかし、第一次世界大戦(1914~18)によってそれは阻まれた。
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1919
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第一次大戦終結の翌年にあたるこの年、英国王立地学協会の例会で、アルパイン・クラブ会長のJ.P.ファラーがエヴェレスト登山実現の動議を出し、受け入れられた。ちょうど王立地学協会の長を継いだF.E.ヤングハズバンドが、地学協会とACの代表者から成るエヴェレスト委員会をつくって、委員長になった。英国のエヴェレスト登山実現にむけた推進者として、ヤングハズバンドの存在は無視できない。彼は、1886年中央アジア横断をし、2年後にカラコルムやパミールを探検した。軍人でもある彼は1903年にインド北西辺境の政務官としてラサに進駐しているが(英国人以外の外国人の入国を拒否しろというこの脅しは卑劣だ)、後にチベット側の許可を得るために重要な役割を果たしていた。
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1920
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C.K.ハワード=ベリーがインドに赴き、政府に援助を乞う。そしてシッキム政務官のC.ベルがラサまで出かけ、ダライ・ラマから登山許可を得た。
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1921
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英国第1次C.K.ハワード=ベリー隊がエヴェレストへのアプローチ(東面と北面)、登攀ルートを偵察する。4人の登攀隊員と数名の科学者一行は5月18日ダージリンを出発し、シッキムからチベットに入るが、チベット西進中、A.K.ケラス博士が病死する。生理学者でもあったケラスはヒマラヤ登山のパイオニアで、パウフンリ(7128m)など、シッキムの高峰を初登頂している。53歳の登攀隊員の死であった。J.マロリー、G.バロック、E.ウィラーがロンブク・シャール氷河からノースコル(チャン・ラ)に達し、北東稜にルートを見いだす。このときマロリーは西稜のロー・ラから南面のクーンブ氷河を見下ろし、その険悪なアイスフォールは登攀不可能であろうといっている。
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1922
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英国第2次C.G.ブルース隊が本格的に試みる。5月22日、マロリーとE.ノートン、T.サマヴェルが無酸素で8225mまで、5月25日にはブルースとG.フィンチが8320mに達する。いったんベースに降り、再度アタックのために3人の隊員と13人のシェルパがノースコルに向かう途中、直前で雪崩に巻き込まれ、下方にいた9人のシェルパがクレバスにたたき落とされて7人が死亡。2次隊の挫折。
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1924
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英国第3次隊のブルース隊長がキャラバン中にマラリアにかかり、代わってE.ノートンが隊長となる。6月4日、8160mの第6キャンプを出発したノートンとサマヴェルは8540mまで無酸素で達し、6月8日第6キャンプを出発し頂上に向かったマロリーとA.アーヴィンは行方を絶つ。マロリー38歳、アーヴィン22歳であった。以後1933年まで、ダライ・ラマからの許可が9年間得られず。
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〔マロリーについて〕
マロリーは1次隊から参加していた有力メンバーであった。彼の”Because it is there”という、箴言として伝えられるこの言葉は、フィラデルフィアの講演を終えて、ある婦人に「なぜ、あなたはエヴェレストに登りたいのですか」という質問に答えたものであるが、それはうるさい人を避けるために用いた常套句であったともいわれる。itは未踏峰としてのエヴェレストであるとかいう意味づけは、後世の人の深読みかもしれない。またマロリーは3次隊の前に、次のようにいっている、「われわれが3回目にロンブク氷河を登るとき、よくも悪くも最後になるであろう。われわれはエヴェレストから慈悲を期待していない」と。それは死を予感していたようにもいわれるが、初登頂への決意ともいえる。さらにマロリーの死について後日談がある。オリヴァー・ロッジ卿がアーノルド・ラン卿に一連の書類を送ってきた。それは世界中の霊媒から送られてきたものだが、ただ一点で一致していた。マロリーとアーヴィンは頂上に達した、と。マロリーは謙遜で立派な英国紳士であったといわれるが、その魅力的な人柄と相まってさまざまな伝説を生んでいる。
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〔登山形態・酸素使用について〕
当初からエヴェレスト登山に酸素が必要かどうかについては対立があり、酸素使用の主唱者はJ.フィンチであった。皮肉にも3次隊の酸素係であったアーヴィンは強い反対者であり、E.シプトンやH.W.ティルマンも反対者であった。しかし実際は、酸素は8000m峰の攻略には不可欠として採用され、酸素器具も次々に開発されて8000m峰登頂に大きな役割を果たした。
登山方法についてもシプトンとティルマンは大規模形式を嫌った。1895年のママリーのナンガパルパット隊、1938年の7次エヴェレスト隊などの例外をのぞいて、ポーラメソードの大規模登山がヒマラヤでは当然の流儀として定着していく。日本でも昭和に入って、ヒマラヤを目指すにはこの形態をとるべしとして、戦前から戦後にかけて富士山や北アルプス、大陸の山々でヒマラヤ訓練として行われた。
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1933
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英国第4次H.ラトレッジ隊。5月30日、8350mに置いた第6キャンプを出発した1次攻撃パーティW.ハリスとL.ウィジャーは第1ステップでアーヴィンのピッケルを発見し、8570mまで達する。2次パーティE.シプトン、F.スマイスも同高度まで。
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1934
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英国の旧軍人M.ウィルソンという、神がかった変なおっちゃんが、インスピレーションからエヴェレスト登頂を使命と考え、飛行機を飛ばして山腹にぶつけ、そこから登るという常軌を逸した計画をたてた。しかし飛行機はインドに行く途中に取り押さえられる。それでもあきらめず、無許可でチベットに入り、単独でノースコル目指して試みるが、行方を絶つ。
※国際N.ディーレンフルト隊バルトロカンリX峰(7260m)、シアカンリ(7422m)登頂。独国第2次W.メルクル隊ナンガパルパット遠征するが、隊長以下4人の隊員と6人のシェルパが死亡。その中には鉄の時代の代表的登山家、w.ヴェルツェンバッハが含まれていた。その後1937年の独国K.ヴィーン隊も7人の隊員と9人のシェルパが死亡し、ナンガパルパットは魔の山と恐れられた。
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1935
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英国第5次E.シプトン隊。許可が遅れ、ダージリン出発も5月24日と出遅れたため、偵察・調査を行った。第3キャンプ付近で前年のウィルソンの遺体を発見している。さらに7~8月にチベットのカルタ・ブー、カルタ・チャンリ、ケラス・ロックピークなど、20以上の6000m峰に登る。
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1936
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英国第6次H.ラトレッジ隊。大がかりな準備をし、強力な12人のメンバーと23人のシェルパで挑むが、モンスーンの来襲が早く、悪天のためノースコルに達するのがやっとで、撤退。
※W.H.ティルマンとN.E.オーデルがナンダデヴィ西峰(7816m)登頂。独国P.バウアー隊がシッキムのネパールピーク、シニオルチュー登頂。墺国H.ティッヒーがグルラマンダータ試登。立教大学堀田弥一隊がナンダコット登頂
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1938
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英国第7次H.W.ティルマン隊。酸素使用と大組織の登山隊を批判していたティルマンは、7人のライト・エックスペディションを企てた。しかし、雪が5月10日から降り始め、悪天が続いたためノースコルから8290mに第6キャンプを出すにとどまった。翌1939年に第二次大戦が勃発し、この7次遠征隊をもって、英国によるチベット側からのエヴェレスト攻撃は終わった。 ティルマンはこの後すぐアッサムヒマラヤに向かい、カントの横のゴリチェンをいう山に挑むが、マラリアにかかって撤退。終戦後はネパール、その後パタゴニアに向かい、そして小さなヨットで海に出て、やがて行方を絶つ。手垢の付いていない辺境へ、さらに辺境へ、そして海へと向かったこの男は、少々偏屈で頑固だが、俺の大好きな山屋だ。
※独国P.バウアー隊ナンガパルパット遠征。米国C.ハウストン隊K2遠征。
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■アルプス鉄の時代、W.ヴェルツェンバッハ、R.カシン、E.コミチといった錚々たる一流登山家によって、5級、6級といわれるアルプスの岩壁が登られていく。とくに第一次大戦前の1930年代はビッグクライムの時代であった。そして鉄の時代の最大の課題であった三大北壁がついに登られる。まず独国のシュミット兄弟によるマッターホルン北壁登攀(1931年)、独国のM.マイヤーとR.ペーターによるグランドジョラス北壁登攀(1935年)が成し遂げられ、墺国のF.ガスパレク、H.ハラー(『チベットの七年』の著者)と独国のA.ヘックマイヤー、L.フェルクが共同でアイガー北壁の初登攀(1938年)に成功した。
ヒマラヤではアルピニストの活動が活発になり、巨峰に挑んでいく。主なものをあげると、1929、31年の独国隊カンチェンジュンガ遠征、1932、34、37、38年の独国隊ナンガパルパット遠征、1938、39年の米国隊K2遠征、1931年の英国F.S.スマイス隊カメット登頂、1932年の米国R.バードソル隊ミニャコンガ登頂、1936年の英国ティルマン隊ナンダデヴィ登頂。1937年の英国F.S.チャップマン隊チョモラーリ登頂。1937年の英国スマイス隊がガルワールのマナピーク(7272m)など数座登頂など。
日本では明治末期に探検時代は終わり、大正にはいると、オーストリアの武官T・Vレリヒによってもたらされたスキーによる登山が行われ、、縦走登山が盛んになる。第一次大戦後、ヨーロッパから登山の思潮や登攀技術が日本に紹介され、近代的な登山が進展してゆく。その担い手は明治末期から大正期に設立された各地の学校山岳部であった。大正期、1910年代には加賀正太郎、辻村伊助らが、20年代には槇有恒、松方三郎らがヨーロッパ・アルプスに登場し、鉄の時代の登山にふれた彼らは日本にアルピニズムの新風を吹き込む。とくに、1921年アイガー東山稜を初登攀し、翌年ヨーロッパの最新技術と思潮をたずさえて凱旋帰国した慶応の槇は、日本近代登山の大きなエポックを与えた人物であった。大正12年(1923)頃スキー登山から積雪期の縦走登山と進み、大正末期から昭和初期にかけて、多くの犠牲を伴いながら厳冬期登山、ヴァリエーションルート開拓が行われた。その先端にいたのが慶応、早稲田、三高などであった。アルプスの主な山の厳冬期登山が果たされ、ヴァリエーション開拓がされていた昭和4年(1929)に同志社大学山岳部が生まれた。出遅れた感があるが、創立翌年から児島勘次らによって記録的な登攀が行われた。
日本人がヒマラヤを訪れるのは、明治期、1900年に河口慧海がネパールからチベットに入り、、1917年には、剱岳に初登頂した画家の石崎光瑶(実際は奈良期に修験者が登っている)がシッキムからネパール、カシミールを回遊し、1918年には慶応の鹿子木員信がカンチェンジュンガの山麓を踏査している。大正に入った1928年には長谷川伝次郎が西チベットのカイラーサまで足を踏み入れ、さらにカシミール、ナンガパルパットの山麓をめぐっている。昭和にはいると、三高や慶応がヒマラヤに照準を当てて研究しはじめるが、最初に実現したのは1936年の立教大学によるナンダコット(6867m)遠征であった。このヒマラヤ登山が他大学に与えたショックは深く、またその頃から立ちこめ始めた戦雲によってヒマラヤへの夢は挫折してゆく。
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1947
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戦後初めて、カナダ生まれの英国人E.デンマンがシェルパのテンジン・ノルゲイ、アン・ダワを連れてチベットに入り、7150mのノースコルに達する。 ※スイスA.ロック隊がガルワールのケダルナート、サトパント登頂。
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1949
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中華人民共和国が成立し、チベットが閉じられるが、ネパールが鎖国を解いて、南からのヒマラヤ登山が始まる。
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1950
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秋、H.W.ティルマンと米国R.ハウストン隊がクーンブ氷河偵察。
※仏国M.エルゾーグ隊がダウラギリT峰偵察後、アンナプルナT峰(8091m)登頂。ノルウェーA.ネス隊がティリチミール(7708m)登頂。
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1951
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春、デンマークのK.ベッカー=ラルセンが4人のシェルパを連れて、ダージリンからナムチェ・バザール、ナンパ・ラを越えてチベットに入るが、ノースコルにも達することができなかった。
秋、英国E.シプトン隊がネパール側偵察。1921年1次隊のときマロリーが登攀不可能を断じたクーンブ氷河のアイスフォールを突破し、ウェスターン・クウムの氷河盆地にいたるが、巨大なクレバスに阻まれる。そのときサウスコルへの可能性を見いだす。
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〔スイスと英国〕
翌1952年に英国は総力をあげて挑もうとするが、1年に1隊のみというネパール政府の許可をすでにスイスが取得していた。戦前エヴェレストを独占してきた英国は狼狽する。スイスから合同でやろうという提案があったが、退けてしまった。英国は前年のシプトン隊にスイス人を2、3人参加させてほしいというスイスの申し出を断ったうえ、ニュージーランド登山家を2人入れた。そういういきさつがあったが、スイスはアングロ・スイス隊を組織し、52年はスイス人がリーダーに、53年は英国人がリーダーにという提案をしていた。スイスの提案を拒否した英国はチョーオユーの許可を取得し、シプトンが率いたが、高度順応が目的であった。
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1952
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スイスが春と秋の2回にわたって攻撃する。春、E.ウィス=デュナン隊はクーンブ氷河を突破し、サウスコルに第6キャンプを設営して、5月28日に8400mのビヴァーク地点を出発したR.ランベールとテンジン・ノルゲイは8595mまで達したが、頂上まで300mを残して撤退した。秋のG.シュヴァレイ隊は強風とマイナス30度という低温と戦いながら、11月20日に8100mまで進むのがやっとであった。
秋、ソ連隊がチベット側から挑んだが、8230mに達し、その後音信が途絶えたという。しかし、これについてソ連は何も発表していない。
※米仏G.ベル、C.コーガンら5人がアンデスのサルカンタイ登頂。
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1953
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英国J.ハント隊。第1隊のR.エヴァンスとT.ボーディロンが5月26日に南峰に到達する。第2次隊のニュージーランドのE.ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが5月29日に初登頂。
※墺独K.ヘルリヒコファー隊がナンガパルパットを攻撃し、H.ブールが単独登頂。
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1956
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スイスA.エグラー隊がローツェ(8511m)初登頂後、サウスコルにキャンプを移し、5月22日J.マルメとE.シュミットが2登、A.ライストとH.グンテンが24日に3登を果たす。
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1960
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5月25日、中国・史占春隊。王富洲、屈銀華、劉連満、貢布が4登。この登頂は、悪天候や超人的な行動、頂上付近の地理的記述の曖昧さ、写真の疑問、宣伝的意図など、貧弱な証拠からほとんど否定的に扱われた。現在は認められている。
春、インドG.シン隊は5月25日悪天のため8625mで断念。中国隊登頂と同日であったため、中国隊の登頂が疑われた。
※アピ登頂
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■戦後になると、ヨーロッパからアルピニストたちがヒマラヤ、カラコルム、ヒンドゥクシュに押し寄せ、未踏峰を次々に登っていった。8000m峰も1960年までに大方登られ、まさにヒマラヤの黄金時代であった。1950年仏国エルゾーグ隊のアンナプルナT峰を皮切りに、1953年のエヴェレスト、ブールによるナンガパルパット単独登頂、1954年伊国A.デジオ隊のK2、墺国H.ティッヒー隊のチョーオユー、1955年仏国J.フランコ隊のマカルー、英国C.エバンス隊のカンチェンジュンガ、1956年の槇有恒隊のマナスル、スイス隊のローツェ、1957年墺国M.シュムック隊のブロードピーク、1958年米国N.B.クリンチ隊のガッシャーブルムT峰、1960年スイスM.アイゼリン隊のダウラギリT峰などである。シシャパンマは1964年に中国の許競隊が登頂した。一方、戦前はチベット側のエヴェレスト、戦後はネパールで活躍したシプトンやティルマンといったパイオニアは、1950年代の中頃になると、登山家の押し寄せるヒマラヤを去り、さらに手垢の付いたアンデスをさけるように、パタゴニアやテラ・デル・フェコといった辺境に赴いていった。
ヨーロッパでは1950年代に主なアルプスの冬期登攀が果たされ、1960年代はじめには、最後に残された3大北壁が冬期登攀された。鉄の時代のアルピニストはさらにアンデスやパタゴニアの峻峰にその登攀技術を展開していく。
日本では1950年代後半から60年代にかけて、JACに所属する大学山岳部のOBたちはヒマラヤ、アンデス、アラスカなどの海外に出かけるようになり、社会人山岳会は、おびただしい遭難者を伴いながら、谷川岳を中心とした先鋭的な登攀を試み、海外においてはヨーロッパ・アルプス6級の岩壁登攀を精力的に行っていった。昭和30年代に空前の登山ブームを迎え、1960年には登山人口が200万人を突破する。こうした潮流のなかで大学山岳部は衰退していった。
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1962
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春、インドJ.ディアス隊が再挑戦したが、南峰まで。
春、米国W.セイヤー隊はギャチュンカンの許可であったにもかかわらず、ヌプ・ラからチベットに入り、ロンブク・シャール氷河からノースコルを肥え、7600mに達した。
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1963
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春、米国N.ディーレンファース隊は隊を二つに分け、南東稜と西稜を目指した。5月22日にサウスコルからJ.ウィッテカーとナワン・ゴンブが5登する。5月22日には南東稜からL.ジャースタットとT.ビショップが6登、西稜からW.アンソールドとT.ホーンバインが7登した。西稜隊は中国側北壁にまわって登頂している。
※サイパル登頂
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1965
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インドM.コリー隊が、5月20日、22日、24日、29日に計9名が登頂した。(8~11登)。この後、1969年までネパールにおける登山が全面禁止される。
※サルカンタイ2登
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1969
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JACが南西壁偵察のため、春に1次偵察隊(藤田佳宏)、秋に2次偵察隊(宮下秀樹)を派遣する。2次隊は南西壁右ルートを8000mまで登攀。
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■戦前の鉄の時代にアルプスで展開したアルピニストは、アンデスやパタゴニアにフィールドを広げ、やがてその舞台をヒマラヤに移していった。ジャヌーやアマダブラム、ムスターグタワーなどの難峰が彼らによって登られ、シプトン、ティルマン流儀のライト・エクスペディションも8000m峰で試みられるようになる。やがてヴァリエーションルート開拓も始まり、ヒマラヤ鉄の時代という風潮が生まれ始めていた。1970年代になると、ヒマラヤ壁の時代を迎える。口火を切ったのは1970年の英国C.ボニントン隊のアンナプルナ南壁と独国K.ヘルリヒコファー隊のナンガパルパット・ルパール壁である。このときR.メスナーは無酸素で登っている。
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1970
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3~6月、JAC松方三郎隊、5月11日に松浦輝男、植村直巳が12登、12日に平林克敏とチョタレーが13登。南西壁は、左ルート8050mまで登攀。
三浦雄一郎がサウスコルからウェスタン・クウム氷河に向かって3km滑降。
※ダウラギリT峰2登
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1971
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4月、南西壁と西稜を目指して、各国から選りすぐったクライマーで国際隊(ディーレンファース隊長)を組織する。悪天候、西稜での凍死者、病人続出で感情的トラブルが起こり、崩壊する。南稜は8380mまで。日本から植村直巳と伊藤礼造が参加。
秋、アルゼンチンC.トサロ隊が通常ルートから挑むが、失敗。
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1972
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4月、K.ヘルリヒコファー率いるヨーロッパの国際隊が南西壁に挑むが、敗退。
11月、英国C.ボニントン隊が南西壁に挑むが、8350mで強風と寒気によって撤退。
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1973
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春、イタリアG.モンツィー隊が通常ルートから5月5日、7日に登頂(14、15登)。隊員64名の大部隊であった。
10月、RCCU水野祥太郎隊が南西壁に挑むが、8380mまで。10月26日石黒久と加藤保男がサウスコルから一気に登頂(ポストモンスーン初登、16登)し、登頂後、二人は無酸素ビバークする。
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1975
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5月、日本女子隊(久野英子隊長)の田部井淳子が女性として初登(17登)。
春、中国・史占春隊の9人が5月27日18登。
秋、英国ボニントン隊のD.ハストンとD.スコットがベースキャンプから33日というスピードで南西壁を初登攀。9月24日に19登、26日にP.ボードマンとペルテンバが20登。一人M.バークは頂上に向かったまま不明。
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1976
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春、英ネパール合同Hストリーサー隊が5月16日、通常ルートから2名が21登。
秋、米国P.トリンブル隊が建国200年を記念して、10月8日2名が22登。
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1977
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5月、ニュージーランドK.ウッドウォード隊がシェルパレス、無酸素で登頂を試みるが、サウスコルまで。
秋、韓国金永棹隊の高相敦とペンバ・ノルブが23登。
※ガルムッシュ2登
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1978
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春、墺国W.ナイルツ隊が9名が登頂。5月3日隊長ら4名が24登、8日RメスナーとP.ハーベラーは無酸素初登(25登)。メスナーはこの年の8月にナンガパルパットのママリー稜を単独無酸素で登頂。11、14日にそれぞれ26登、27登。
秋、独仏K.ヘルリヒコファー隊、過去最高の16人が登頂。10月14日独の3人が28登、うちH.エングルは無酸素2登。仏の4人が29登、うちJ.アファナジェフとN.ジャジェールが8200mから無酸素、パラシュートなしで、標高差1750mをスキー滑降。1970年の三浦の記録を大きく破った。16、17日にも31登、32登を果たす。
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1979
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春、ユーゴスラビアT.シュカリャ隊がロー・ラから頂上に至る西稜ダイレクトルート登攀に成功。5月13、15日に33登、34登。
秋、JACがチョモランマ偵察隊を派遣。
秋、10月1、2日、西独G.シュマッツ隊が30日という過去最短記録で8人全員登頂。下山中に隊長夫人ら2人が疲労凍死する。隊長50歳、隊長夫人39歳は最高齢登頂記録で、夫婦での登頂も初であった。35登、36登。
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■1970代にはいると、日本から1年に100人以上の登山者が入り、遭難も多く国際的非難を浴びる。1974にはカラコルム、ガルワールなどの地域がさらに開放され、ヒマラヤが広く外国人に開放されるようになる。1975年には登山史に記録されるべき登山が行われる。英国ボニントン隊によるエヴェレスト南西壁、メスナーとハーベラーによるガッシャーブルムT峰無酸素速攻登山などである。70年代中頃には、速攻型のアルパインスタイル登山、岩壁登山の傾向があらわれはじめていた。シェルパレス、無酸素、少人数の登山が試みるようになっていく。植村直巳が単独で北極点に達した1978年、R.メスナーがパートナー、テントを排除したナンガパルパット単独無酸素登頂は際だっている。ヒマラヤにおける遭難も多くなり、1978年には日本人だけで13人が死亡している。ヒマラヤにおける先鋭的な登攀が行われる一方で、1977年から旅行会社やスポーツ会社による公募登山が始まる。それまで経験のある登山家のみに許されたヒマラヤであったが、シェルパの全面的バックアップによって未経験者も登られるようになる。1979年には中国がチョモランマをはじめ8峰を開放すると発表。ネパールでは冬期登山が許可された。
1974年になってアイスハンマー、アイスバイル、出っ歯アイゼンのコンビネーションによるダブルアックスというスピーディーな登攀方法が採りいられるようになる。また、米国ヨセミテあたりから始まるフリークライミングが、鉄の時代の人工登攀に取って代わりはじめていた。
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1980
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冬、ポーランドA・サヴァダ隊が冬期初登頂。2月17日、R.チヒとK.ビエルツキが南東稜から登頂。酸素を使ったクラシックスタイルであるが冬期初登頂。5月18日に未踏のサウスピラー(南側稜)を無酸素で登っている。
春、JAC渡辺兵力隊が北壁と北東稜を目指す。5月3日北東稜は加藤保男が単独登頂、北壁は5月10日、重弘恒夫と尾崎隆が成功。
モンスーン期にR.メスナーが北東稜から単独で無酸素登頂。6月20日入山、高度順応後、8月18日、6500mのベースキャンプを出発し、20日には登頂。
春、スペインR.トリアス隊が、西稜からローツェとエヴェレストをねらうが、事故のため断念。
秋、伊ネパールF.サントン隊52名が南東稜に挑むが、南峰どまり。
冬12月~翌1月に、英国A.ラウス隊が無酸素、シェルパレスで挑むが、強風と寒気のため7300mで断念。
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1981
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1月、冬期エヴェレスト植村直巳隊、一人転落死、サウスコルまで。
春、明治大中島信一隊が、西稜8750mまで。
秋、米国R.ブラム隊が4000mの岩壁をもつ東陵(カンシュン・フェース)に挑むが、6750mで断念。
※四姑娘山登頂
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1982
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春、英国ボニントン隊が東北東稜を4人で攻撃。5月18日P.ボードマンとJ.タスカーが8200mの第1ピナクルを越えた後、消息を絶つ。
春、ソ連E.タム隊が初めてネパールを訪れ、南西壁左岩稜に新ルート開き、5月4、9日にかけて、11人が登頂。
12月、加藤保男が冬期エヴェレストに単独登頂するが、下山中、小林利明とともに消息を絶つ。3シーズン、3回登頂は初。
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1983
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10月、米国J.D.サノ隊、イエティ同人吉野寛隊、山岳同志会川村晴一隊の3パーティが集中し、同日に登頂した。日本の2隊は南東稜上で合流して無酸素登頂が果たされるが、イエティ隊の吉野、禿博信が転落死する。
12月、カモシカ同人高橋和之隊が10月のローツェ西壁に続いて、冬期登頂を果たす。
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1985
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10月、映画「植村直巳」撮影八木原圀明隊の7人が登頂。
※ナムナニ登頂
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1986
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9月、スイスのアイゼリン・スポーツが、エヴェレスト初の公募登山隊を組織し、16人のシェルパにサポートされて、25人が南峰(8763m)まで登る。
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1988
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5月、日中ネ三国合同隊が交差縦走。
9月、仏F.ボアソニェ隊のM.バタールがBCから22.5時間で登頂する(ただしサポートとトレールがあった)。J.M.ボワヴァンが頂上からパラパント下降。TV生中継される。バタールは前年12月のダウラギリT峰、春のマカルー、チョーオユー、エヴェレストと10ヶ月で8000m峰を4座登っている。
10月、チェコスロバキアI.フィアラ隊が南西壁をアルパインスタイルで登攀。
※カント登頂
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■1980年代は中国解禁、ネパールやパキスタンの新たな開放によってヒマラヤは大いににぎわう。登山方法も、アルパインスタイル、無酸素が定着し始め、さまざまなヴァリエーションルートが開拓されていった。また冬期登山、1シーズンに数座登る連続登攀、単独登頂、スピード登山といったスタイルが目立ち始める。1000mを越すビックウォールを求めてガンゴドリ周辺やトランゴ岩峰群にクライマーが集まる。公募登山も盛んになり、人気のある8000m峰ではルートが交差したり、時間待ちを強いられるという現象もみられるようになる。
ヨーロッパ、とくに伊国、仏国では、人工壁を攀じるクライミングコンペが異常な盛り上がりを見せ、賞金がかけられ、観客が増加した。そのフリークライミングが多くの若者を引きつけ、クライミング人口が急増する。これは登山の範疇にはいるのか?
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1991
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5月、貫田宗男と二上純一が登頂するが、二上が下降開始直後、墜死。
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1992
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9月、仏のP.タルディヴェルがスキーで南峰からアイスフォールを通過してBC手前まで滑降。この年は空前の登頂ラッシュとなり、90人が頂上に立った。
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1993
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初登頂から40周年を迎えるエヴェレストに登山隊が殺到し、のべ129人が登頂を果たした。5月10日には40人が登頂している。スペインのR.ブランコによる60歳の最年長記録、ネパールのアン・リタによる8回目の登頂など記録ずくめのエヴェレストであった。
12月、群馬岳連隊が南西壁冬期初登攀。秋にチョーオユーで順応し、BC
から18日で登頂している。
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1994
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ノルウェーのE.カッゲが登頂し、北極、南極と会わせて3極自力到達する。すでに、この年の1月に韓国の許浩永が南極点に達し、3極到達を果たしている。
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1995
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5月、日本大学平山善吉隊が北東稜から登頂。
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1996
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ニュージーランドの公募隊が24人登頂するが、5人が遭難。
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以後、最高年齢の更新、頂上からのスキー滑降などの記録がある。また、1924年に行方を絶ったマロリーの遺体捜索隊、地層の調査隊など、必ずしも登山を目的とはしないグループがエヴェレストにおいて活動している。戦前は英国のみに許されたエヴェレストは、戦後になると各国の登山家、そしていまや登山家に限らず万人に開かれた山となった。
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